『ゴジラ-1.0』そして怪獣は時代の依代(よりしろ)となる【ネタバレ感想】

ゴジラ-1.0(ゴジラマイナスワン)を観た。

私はゴジラを拗らせ過ぎている、その自覚はある。
ゴジラファンのみならず一般の人々をも映画館に呼び寄せ、記録的なヒットとなったシン・ゴジラは、個人的にはそれほど響かなかった。
好きなゴジラ映画は初代ゴジラ(1954年)、ゴジラvsビオランテ、そしてレジェンダリー版ゴジラ/キングオブモンスターズ。次点でレジェンダリー版ゴジラ(2014年)。
偏っていることは否めない。

そんなめんどくさい人間が書く感想だということをご理解の上、この先をお読みいただきたい。

 

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真摯な姿勢で作られたゴジラ

ゴジラ-1.0は、間違いなく真面目に作られたゴジラ映画だ。

シン・ゴジラの時のような、「えっこの国のどこにこんなにゴジラ映画を観る人が…?!」みたいな現象は起きないかもしれないが、真面目に作られているので観た人の評価は高いと思う。

ゴジラの造形は禍々しくて恐ろしく、シン・ゴジラアメリカ版ゴジラの造形に引っ張られ過ぎない平成ゴジラっぽさも残しながら、VFXで滑らかな動きや生っぽい質感を表現していて好感が持てた。
陸に上がると動きにやや不自然さがあったが、銀座を闊歩し、国会議事堂の前から戦車に攻撃されて怒る様は凄まじさすら感じた。

ゴジラが熱線を吐く時に背びれが尾の先から光り始め、それらが身体に押し込まれてから発射するという機械っぽい演出は革命だと思う。

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過去も希望も捨てきれない危うさ

舞台が第二次世界大戦末期〜終戦直後にしては、登場人物の顔も服も全体的に綺麗すぎないかなと思ったが、気にしすぎと言われればそれまでだろう。

主人公の元特攻隊員、敷島(演・神木隆之介)の戦争によるPTSDと思しき症状を丁寧に(時に丁寧すぎるほど)描いており、ゴジラも恐ろしいが人が殺し合う戦争の方が現実としてよっぽど恐ろしい、ということを描こうとしているのだと感じた。
しかし、敷島の身の回りの人間ドラマにかまけて、大戸島にいた恐竜の生き残りのような“呉爾羅”が核実験で“ゴジラ”となった経緯が駆け足になっているのが少し残念だった。観客は初代ゴジラの設定くらいは理解しているはず、という前提なのだろうか。

反戦思想や無力な政府への怒りを盛り込んだのは、現在の世界情勢を鑑みると妥当だろう。
しかし、第二次世界大戦末期の日本産の戦艦や兵器への憧憬も色濃く感じ、やや危うさを感じた。

劇中前半でゴジラの熱線を浴びて海の藻屑になった戦艦〈高雄〉は史実では戦後に自沈処理をさせられた船であり、海神(わだつみ)作戦で主要な役割を演じた元日本帝国海軍の戦艦〈雪風〉は不沈艦として名高い船だった。
その時期の戦艦に明るくない私すら〈雪風〉の登場には鳥肌が立ったのだから、戦艦好きにはたまらないのだろうなと思う。
そして決して実戦配備されることのなかった戦闘機〈震電〉の登場にも、恐らく「熱い」と感じた人は少なくないはずだ。

私が雪風の名前が持つ意味を知ったのはこの小説から

自国の兵器に憧れを抱いて何が悪いのか、と問われれば、私たちが第二次世界大戦における日本の立ち位置を学ぶことを怠り、その後の向き合い方も間違えている史実を振り返るべきだと思う。
安易にその時代の兵器を憧憬を込めた眼差しで見ることには、再びその兵器を以て戦争に突入しない危うさを内包していないと誰が言えるのか。
この映画では、それらの兵器を使い、限られた火薬量でゴジラに挑む。こういう不可能ミッションに燃える人も多かろう。
だからこそ危ういのだ。


唐突なオマージュと不吉な雨

気になるところは他にもある。
ゴジラが何故東京を目指すのか、明確にも暗喩的にも語られない。また、この映画のゴジラは人を喰わないので銀座で電車を咥える必然性はないが、それでも咥えている。
初代ゴジラへのオマージュなのだろうが、初代ゴジラは人を喰うタイプだったからエサ満載の電車を咥えたのであって、戯れに噛み砕いたわけではない。

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こう見えてお食事中

その電車に乗っていた典子(演・浜辺美波)がミッション・インポッシブルばりの粘りを見せて水に落下するのは主人公補正ということにしよう。しかし、その後に海から揚がって再び銀座の雑踏の中に紛れて、家から駆けつけたと見える敷島と再会するのは些か唐突に感じた。

さらに気がかりなのが放射能の扱いだ。
銀座で熱線を発したゴジラにより(恐らく)国会議事堂は消し飛び、空には原爆を彷彿とさせるキノコ雲が上がる。そして間もなく、銀座に黒い雨が降り、典子を失ったと思った敷島はその雨に打たれながら慟哭する。
その後のニュースでは放射能が有害であるというような主旨のことが言われ、銀座が封鎖されたことからある程度の危険性は認識されていると思われるが、黒い雨についてはどうなのだろう。


こちらの予告では銀座が衝撃波で消し飛んでいる


安全対策が二の次の決死作戦

海神作戦についても、引っかかるところはある。

前日、誰も命を捨てることなくゴジラに勝つ、と言いながら、〈雪風〉に乗り込んだ研究者や一般企業の人たちがヘルメットもライフジャケットも身につけていなかったり、〈震電〉に乗り込んだ敷島がゴーグルは身につけていたのにヘルメットを被っていなかったりして、物資不足が甚だしいのか見た目の問題かがよくわからなかった(ちなみに「誰も死なない」という目標はゴジラの鳴き声を囮にゴジラを誘導しようとした部隊が壊滅したことで達成はされなかった)。
ゴジラも、出航直前の港に現れたのに、目の前の人間たちには目もくれず田園地帯に上陸したのは何故なのだろう。あそこで〈雪風〉か〈響〉のどちらかをサクッと踏んでいれば話が終わった。

ゴジラが海の中で熱線を放った時、〈雪風〉の艦長が退避を求めると、学者(演・吉岡秀隆)が「ゴジラはあれを放ったらしばらくは回復するまで次のは出せない」と言うのだが、そういう大事なことは事前に言っておいて欲しい、と切に思った。

典子の死後、敷島は戦中に達成することが出来なかった特攻をやり遂げようとゴジラと刺し違えることに執着する。
結局最後の最後で敷島は生きることを選ぶが、正直なところ、橘(演・青木崇高)が「これが爆弾の安全装置を解除するレバーだ」と言われて引いたレバーが実は脱出機構で…みたいな生き残り方をして欲しかった。正直、戦争のPTSDはそれほど容易く治るものだろうか。


ハッピーエンドで終わらせてくれない

辛くもゴジラを倒し、敷島は生還する。そして、銀座で死んだと思われていた典子は怪我を負いはしたが生きていた。
敷島と典子が再会し、一見ハッピーエンドに思えるが、敷島は銀座で黒い雨を浴び、典子もやはり銀座で負傷した。ふたりとも、放射能汚染は免れないように思う。
しかもラストシーンで、典子の首筋に黒い染みのようなものが浮かび、深い海でゴジラの肉片が膨張して映画は終わる。

これをハッピーエンドと言うには不安要素が多すぎる。
予想されるのは、広島や長崎だけでなく、東京も放射能によって汚染され、死者がさらに積み上がる未来だ。


ゴジラが乱反射する時代の空気

私は、シン・ゴジラを観たあたりから、ゴジラとは、クリエイターたち、ひいてはその国と時代を内含する依代のようなものなのだろうと考えてきた。

初代ゴジラ第二次世界大戦後、戦争の傷跡が人々の記憶にまだ残る中、水爆実験へのアンチテーゼとして生まれた。
シン・ゴジラ東日本大震災と、その直後に起きた原発事故を日本人に想起させ、災害と人災を体現するものとして生まれた。
モンスターバースのゴジラは、アメリカが第二次大戦後に行った度重なる核実験を正当化しつつ、アメリカ人が強く憧れ、そして決して持ち得ない神話の時代から君臨する太古の神として生まれた。

ではゴジラ-1.0のゴジラは一体何なのだろう。
2023年に、78年前の敗戦直後の日本を舞台にして生まれたゴジラには、何が込められているのだろう。
再び戦争に突入するのではないかという不安か?
あの戦争を繰り返してはならないという警告か?
国民の方を向いていない政府への怒りか?

ここで断言するつもりはないし、答えを出せるとも思わない。
ただ、もし最適解がわかるとすれば、それは現在が過去になってからかもしれない。