140文字以上で考え直してみる

考えをまとめた上で長文を書くのは骨が折れる。
長文を書こうとするとどうしても格好をつけた文章になってしまう。

だから脊髄反射で文字を打てるTwitterは、心地が良かった。「寝落ちした」とか「お風呂入るのめんどくさい」とか、家族にも言えない、どうでもいいけど何となく吐き出したい、そんな諸々をネット空間に書けるのはTwitterしかなかった。
それにTwitterは、身の回りのあらゆる文字を読んでしまう文字中毒には夢のような場所だ。色んな人が、脈絡なく囀っている。読もうと思えばずっと読める。そして全部が140文字で終わるので、長文を読む気力や集中力がない時にはいい。
脊髄反射で文字を打てるのが気楽で、色んな人のツイートを読むのが楽しくて、タイムラインと自分の距離がゼロになっていた。

何かを観ればTwitterを開き、何かが気になればTwitterで検索し、ファボを押し、リツイートし、自分もツイートしていた。
その様子は、もののけ姫の終盤で、エボシ御前に首を飛ばされたシシ神がデイダラボッチの姿で己の首を探し出すのに似ているなと思っていた。デイダラボッチが、首を取り戻したいあまりに豊かな森の中に腕を広げ、手当たり次第命を奪うシーンだ。

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厳密にはこの場面ではないが、ジブリの公式サイトで「常識の範囲内で」使用可能な画像の中で首なしのデイダラボッチがこれだけだった

でも多分そろそろ、潮時だろうと思う。
と書いてから、恐ろしいほど自信のない文だと気付いた。「多分」「そろそろ」「だろう」「と思う」。

すごい、全然足抜けできる気がしない。
何せ、この10年ほどTwitterは生活の一部だった。大袈裟でなく、Twitterは私が見る世界の半分以上を占めていた。どれくらいかと言うと、同期間で現実で知り合った人よりフォロワーの人とオフラインで会った数の方が遥かに多い。そして海外旅行まで行った

Twitterは本当に画期的なツールだった。
過去形にしてしまったけど、Twitterという名前のサービスは既に存在しないので過去形でも問題はなさそうだ。それにしてもテレビとかで「Twitter(現X)」「X(旧Twitter)」と表記されているのを見ると、人は優れた頭脳や巨万の富と引き換えにネーミングセンスを奪われるのか…と日本の行政に対するのと同じ感想を抱く*1

話が逸れた。
私にとってTwitterは、大好きな洋画の情報を得られ、同好の士のツイートを読み漁れて、地球の裏側で起きていることをリアルタイムで知れる、世界へ通じる窓だった。顔を合わせなくても繋がれる、内弁慶な私には最高の場所だった。
趣味の話だけじゃなく、ひとりひとりの囀りは小さくとも、声を上げればタイムラインには仲間がいて、水面に小さな石を投げ込んだ波紋のようにTwitterに広がり、国の政治までも動かす。今まで声を上げられなかった人々の声が届く。すさまじい革命だったと思う。
今もそうなのだろうし、これからもそうであってほしい。

だけど少し、私は疲れた。疲れたので、距離を取る。少なくともゼロ距離でタイムラインに首を突っ込むのは極力控えたい。
アカウントは消さないので、距離を保てるかは謎だけど、タイムラインを見ないようにとiOSアプリを消してしまうと次にダウンロードし直す時にはXになってしまうので、アプリはそのままにしておく。Xになるのが嫌でアプリをアップデートしてない。

これからは140文字以内で話すことを積み上げて、今までよりは頻度を上げてここで140文字よりは長い文章を書けたらいいと思う。
読んでいただければ嬉しいが、川か滝のように流れるタイムラインに比べれば留まりにくい場所だと知っているので、それはそれで仕方ない。
あと私は、いい加減手からスマホを引き剥がしたい。スマホに唐辛子を塗るしかないのか。

 

 

 

*1:念のため言っておくと、バンド名のXには何の罪もない。SNSサービスの名前としてわかりにくくてまったくそぐわないと思うだけ。