ボルダリングを始めるなら秋がいいという話

記録的な高温を記録している11月の始まりではあるが、とにもかくにも秋である。
湿度が下がり、耐えがたい暑さはなくなった。

秋になるとどうなるか、というと、ガチのクライマーたちはこぞってアウトドアの岩に登りに行く。いわゆる『外岩』のベストシーズンが今だ。

そしてガチのクライマーたちが外岩に行くとどうなるか。→週末のボルダリングジムの混雑がいくらか解消される。

屋内のジムなら通年冷暖房完備では? と思われるかもしれないし私もそう思いたいが、残念ながら外気温と人が放つ熱気の影響は絶大だ。
外気温が下がり混雑も少なければ、ゆったり登れるし涼しい。
真夏はクーラー全開だと窓は開けられないし、夏の終わりはエアコンを弱められて結局汗だくなんてこともザラだった。

外気温が低ければ窓を開け放って登れるので、チョークの粉に噎せることも減る。

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見栄えが良いので前にも載せたけど都内の某ボルダリングジムの屋上も秋がベストシーズン

そんなわけでボルダリングを始めるなら秋がいいよ、という話でした。

 

(2023-11-10 追記)
現在、プロアマ問わず参加できるボルダリングコンペ(競技会)のノースフェイスカップ予選が全国で開催中のため、予期せぬ混雑&ジムの休業がある場合があります。ご留意ください。

【THE NORTH FACE CUP 2024】

【映画で学ぶ英語】ボーイフレンドに絡むヒモと糸?『赤と白とロイヤルブルー』

前回に引き続き、『赤と白とロイヤルブルー』からの記事である。


何故こんなに頻繁に面白いところが見つかるのだろう、と思っていたが、プライムビデオ独占配信ということもあり、字幕と音声を自由に選ばせてくれるからなのかもしれない。英語字幕、英語音声、日本語字幕、日本語吹替を反復横跳びできるのは楽しい。

例によってここから先はネタバレ全開なのでご容赦いただきたい。

以下、大いにネタバレです。

 


劇中後半、アレックスとヘンリーの関係が公になり、アメリカ大統領府とイギリス王室が対応に追われるあいだ、二人は連絡することすら許されなくなる。

しかしザハラの計らいでアレックスがロンドンへ飛び、ヘンリーと再会を果たす。
アレックスが大統領府で行なった演説をヘンリーは「素晴らしかった」と言い、「君の恋人であることが誇らしい(I’m proud that I’m your boyfriend.)」と続ける。

それを受けてアレックスも「僕だって君の恋人で誇らしいよ」と返す。


(クリックすると当該シーンから再生されます)

以下、02:30辺りからのヘンリーとアレックスがジョーク混じりにする会話。

ヘンリー:Oh, sorry. I’m white and upper-class, so my affection comes with strings.
(字幕)上流階級の白人だから 愛情もタダじゃない
(吹替)僕は上流社会の白人だから 相手もレベルが高くないとね

アレックス:Oh, speaking of boyfriends on strings, you’ll never know who Shaan is dating.
(字幕)なら機密情報を提供する シャーンに恋人がいる
(吹替)そうだ レベルの高い恋人といえば シャーンはすごいのと付き合ってる

stringsって何…?

どうやらwith stringson stringsのあいだで言葉遊びがされているようなのだが、字幕でも吹替でも二人が言葉遊びをしているということが優先され、それぞれ訳が微妙に異なる*1

で、辞書で調べまくったら、次のような意味が出てきた。
まずwith stringsについて。

string(名)
(中略)
8《通例 strings》(援助・提案・協定などにつける)付帯条件、「ひも」:
◆a generous offer with no strings attached[=without strings] 付帯条件のいっさいない寛大な申し出

小学館ランダムハウス英和大辞典第2版』より抜粋

用例を踏まえて考えると、ヘンリーの言う
“my affection comes with strings.”は、
「〈僕の身分からすると〉僕の愛情は『条件ヒモ付き*2なしで』注がれるということはない」
という意味になる。字幕の「愛情もタダじゃない」、吹替の「相手もレベルが高くないとね」はここから来ているのではないか。
これは、その前の会話で、ヘンリーがアレックスの演説を素晴らしかったと褒めたことを引き合いに出していると思われる。
つまりヘンリーは、アレックスに対し
「自分ほど身分の高い者の愛情が欲しいなら、それを補って余りある何かしらの貢献をせよ」
と匂わせたわけだ(しつこいけどこれはジョーク)。

次にon stringsについてだが、こちらは複数形でなく単数形のon a stringの意味を見つけた。

hàve [kéep] a person on a [(米) the] string
人を陰で操る、人を言いなりにする

研究社『新英和大辞典第六版』より抜粋

アレックスはヘンリーのジョークに笑いながら、
“Oh, speaking of boyfriends on strings,”
と返す。
これを辞書で調べた意味と、ヘンリーが言った言葉とを考え合わせると、
「ああ、裏からで引かれているボーイフレンドと言えば(後略)」
という意味になるだろう。
「ボーイフレンド」というのはこの後の展開から見てももちろんシャーンを指し、「裏からを引いている」のは前段のシーンからザハラだと思われる*3
しかし、字幕にも吹替にも「を引かれている」ニュアンスは読み取れない。敢えて言うなら、字幕の「なら機密情報を提供する」の「機密情報」に当たるかもしれない。

ここは、訳出がとても難しい部分だと思う。
なぜならアレックスがSpeaking of(〜と言えば)という表現を使っていることから、ヘンリーの“my affection comes with strings.”のstringsから思いついて話していることは確かなのだが、この時のアレックスが言うことは、直前のヘンリーの言った内容と直接関係していなければならないわけでもないからだ*4
しかしそれでも、ヘンリーの言葉に合わせた台詞回しにしなければならないのだから、翻訳者の方々には頭が下がる。

最後に、私なりに二人の会話を訳したものを置いて終わりとしたい。もちろん、字幕の文字数制限や吹替の秒数制限など無視すれば、プロの翻訳者ならもっと適した訳が可能だろう。

ヘンリー:Oh, sorry. I’m white and upper-class, so my affection comes with strings.
(意訳)ああ、すまない。僕は白人で上流階級の人間だから、相手は僕の身分に釣り合う人でないと。

アレックス:Oh, speaking of boyfriends on strings, you’ll never know who Shaan is dating.
(意訳)釣り糸で操られてる恋人といえば、シャーンが誰と付き合ってるか知らないだろ。

いややっぱりめっちゃ難しい。

翻訳者の方々本当にお疲れ様です、という気持ちになった。

 

 


*1:誤解を招きたくないので書いておくと、字幕と吹替が間違っているということではない。むしろ限られた文字数・秒数でこれだけテンポの良いやり取りを完成させた翻訳者の方々はさすがプロだと思う(何様?)。

*2:そもそも「ヒモ付き」の日本語の意味を知らなかったのだが、デジタル大辞泉によれば『金銭その他の援助を受ける際に、ある引き替え条件がついていること』という意味。この慣用句が英語でもほぼ同じ意味で使われていることにも驚いた。

*3:アレックスがboyfriends on stringsと言ったのは、boyfriendsの中にシャーン以外に、ザハラの手腕により再会できたアレックスとヘンリー(ボーイフレンド同士なので)も含まれるかもしれない。stringsが複数形なのはboyfriendsが複数形なのでそれに合わせたのだろう。

*4:日本語でも会話の途中で相手の言ったことを引き取って「〇〇と言えばさぁ…」とまるで関係のない話をすることがあると思う。Speaking of〜はそういう時に使える。

【映画で深読み英語】“History, huh?”に込められた未来への決意『赤と白とロイヤルブルー』

プライムビデオで配信中の『赤と白とロイヤルブルー』に夢中だという記事を書いた。

というか、そもそもこの記事のタイトルで映画の紹介も…と思って書いていたら紹介の分量がどんどん増えてしまい、感想記事にシフトすることになった。

そういうわけで『赤と白とロイヤルブルー』について書きたいことはだいたい前の記事に詰め込んで気が済んだし、この記事を読んでいる方は映画を鑑賞済みだという前提で、ネタバレを大いに含む本題に入ろうと思う(未鑑賞の方には恐らく何のことかわからないと思うのでここから、もしくはこの記事の末尾のリンクからプライムビデオでご覧ください)。

 

以下、大いにネタバレです。

 

映画を英語音声で観た方なら、このシーンと台詞にピンと来るのではないだろうか。

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↑原作(アメリカ版コレクターズエディション)のカバーを取ると表裏表紙がこう

原作ではこの台詞は広く世間の耳目に触れられることになり、それがあるムーブメントを巻き起こすのだが、映画化にあたってはアレックスとヘンリーの関係が強く結ばれるシーンで使われている。

自分の性的アイデンテティをひた隠しにして、遅かれ早かれ王室の繁栄のために女性と結婚し子どもをもうけることを暗黙の了解としてきたヘンリーだが、アレックスに心情を吐露され、二人の関係が後戻りできないところまで行ってしまうのを恐れてアレックスの前から姿を消し、音信を断つ。

愛する人に愛していると言うことにすら怯えるヘンリーのもとにアレックスは海を越えて押しかけ、顔を合わせて「この関係が終わりなら、理由を教えてくれ」と迫る。
ヘンリーは王室に生まれた自分に課せられた運命を並べ立て、アレックスを拒むが、最後にアレックスに「僕に消えて欲しいなら君の口からそう言え」と言われた時、どうしてもそのひと言は言えない。

ヘンリーは亡き父との思い出の場所にアレックスを連れて行き、「いつかこの場所に愛する男性を連れてきて、一緒にダンスをするのが夢だった」と言う。

その夢を叶えてくれたアレックスに、ヘンリーは自分に課せられた運命に立ち向かうことを誓う。


(クリックすると当該シーンから再生されます)

02:40〜の英語音声の書き起こし。

ヘンリー: Because when they write the history of my life, I want it to include you, and my love for you.

アレックス: History, huh? Bet we could make some.

このシーンで、ヘンリーが言うhistoryとアレックスの言うhistoryでは、意味が異なっているのが興味深いと感じた。
初めて観てから2か月以上このことについて噛みしめていたが、まだずっと噛んでいられるので書いてみる。

まず、辞書からhistoryの意味をざっくりと。

his・to・ry (名)

1. U 歴史; [複合語で]…史; (歴)史学, (学科としての)歴史
2. C [通例a/one's ~](人などの)経歴, 履歴; 前科; [医]病歴;  U 沿革, 来歴

三省堂ウィズダム英和辞典 第3版』より抜粋

上記の意味はまた後で戻って見ることもできるし忘れていただいでもこの先多分支障はない。

ということで、ヘンリーの方から見て行こう。
プライムビデオの日本語字幕および吹替では、以下のように訳されている。

ヘンリー:Because when they write the history of my life, I want it to include you, and my love for you.
(字幕)いつか僕の伝記が出る時は 君もその一部に 僕の君への愛も
(吹替)僕が生きてきた歴史が書かれるとしたら 君との愛についても 書いて欲しいから

ここでヘンリーが話す“they write the history of my life”のhistoryは、壮大な歴史というよりは個人的な来歴・経歴を指す。

そしてこの台詞は、彼が王子であることと大いに関係がある。イギリス王室に生まれた者は全員、恐らく例外なくその生涯が何かしらの形で公的に記されるはずだからだ。

また、この時の“they”は特定しない不特定多数の人々を指すので、“they write the history of my life”の訳は字幕では「僕の伝記が出る」、吹替は「僕の生きてきた歴史が書かれる」と訳出されている。ヘンリーの人生に関するものであるにも関わらず、そこにヘンリーの意志は介在しない。

ヘンリーがそう言った時、アレックスは一瞬目を伏せ、そのあと再び顔を上げて答える。

アレックス:History, huh? Bet we could make some.
(字幕)歴史か 僕らなら作れる
(吹替)僕たちで作ろう 歴史ってやつを

アレックスはまず、“History, huh?”(歴史だって?)と笑顔を見せる。

続けた“Bet we could make some.”のsomeの後ろにはhistoryが省略されており、不可算名詞のhistoryには文字通りの人類の歴史という意味がある。

で、一旦、“Bet we could make some history.”としてみよう。
すると“make history”という成句が見えてくる。これは、「歴史的な偉業を成し遂げる」「歴史を変える」という意味だ(上に引用したプライムビデオ公式の投稿にもその表記がある)。

つまりアレックスは“History, huh?”と言った時点で、ヘンリーが言ったhistoryとは違う意味のhistoryに思い当たっていたのだと思う。
しかも主語は“we”であり、字幕・吹替共に、語順は違えど「僕たちなら歴史を作れる」となっている。この時、言うまでもなく「歴史を作る」のはアレックスとヘンリーを指している。

ヘンリーがhistoryを「他者に書かれる」個人的な伝記などを指して言ったのを受けて、アレックスは敢えてhistoryを「自分たちで塗り替えていける」人類の歴史の1ページだと言い直したのだ。

それは、この先どんな困難があろうと二人で乗り越えていける、という意味だったのではないだろうか。

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原作では、アレックスとヘンリーを支持する人々が、“History, huh?”の文字がプリントされたTシャツを自主的に作り、身に着ける描写がある。

映画には残念ながらそのシーンはないのだが、今ものすごく、そのTシャツが着たい。

『赤と白とロイヤルブルー』 古典的なラブストーリーで紡ぐ新しい時代の希望【ネタバレ感想】

プライムビデオで配信中の、『赤と白とロイヤルブルー』*1に夢中だ。

原作は2019年に出版されたケイシー・マクイストンの『Red, White & Royal Blue』。邦訳(2021年発行)もある。*2

アメリカ合衆国初の女性大統領(もちろん民主党だ)の息子であり、ヒスパニック系の血を引くアレックス・クレアモント=ディアスと、イギリスの王子ヘンリーとのラブストーリーが軸なのだが、実は合衆国大統領選も絡んだポリティカルサスペンスの要素も含んでいる。

原作に色濃い大統領選を巡る駆け引きは、プライムビデオ版では幾分か薄れ、アレックスとヘンリーの関係にスポットが当てられている。

いがみ合う大国の君主の子供たちが、ある事件をきっかけに距離を縮め、恋に落ちるという、設定としてはおとぎ話のようでもあるし、ラブストーリーの王道を行っているようでもある。

アメリカ合衆国大統領の息子と、超保守的なイギリス王室の王子という立場。
アレックスは自分の母親で現大統領のエレン・クレアモントが二期目を狙う大統領選を控えている。ヘンリーは自分の性的アイデンティティを王室のほとんどの人間から無視されている。
そして当然ながら、二人とも世界中に名を知られた公人であり、スキャンダルは許されない。

自分たちの置かれた立場の重要性や違いを知りながらも互いに惹かれ合うのを止められない、というのは『トリスタンとイゾルデ*3や『ロミオとジュリエット』あたりからさんざん使われてきた設定ではあるだろう。
しかし、その二人が男同士であることが2020年(劇中のタイムライン)ならではだと思う。

そして、ここが重要なのだが、この作品は同性愛を“禁じられた関係”として描いてはいない。

主役の二人は、好きになった相手が男だったからと言って苦悩したりはしない。

アレックスは、ヘンリーにキスされるまで自分がバイセクシャルだという明確な自覚はなかったが、キスされたことに苦悩や嫌悪感を抱くどころか、舞い上がる。
彼はそんな自分に戸惑い、副大統領の孫であり親友であるノーラに、ヘンリーにキスされたことを打ち明ける。そのトーンは、(性差別的ではないかという誹りを免れないかもしれないが)ティーンエイジャーの女の子たちがお泊まり会で好きな人のことについて話し合う時のような、ときめきと照れ臭さに満ちている。

アレックスは、ヘンリーと少々強引に愛を確かめ合い、秘密裏に逢瀬を重ねるようになる。

大統領補佐官のザハラに二人の関係がバレた時、ザハラはアレックスの相手がヘンリーだと知って呼吸困難に陥りかけるほど驚き、激怒するが、それはヘンリーが男性だからではなく、アレックスの母親の選挙運動中にマスコミに囲まれたホテルで大統領の息子がイギリスの王子と一夜を共にしていたからである。

アレックスはそのあとすぐに、男性の恋人が出来たこと、そして相手がヘンリーであることを母親(であり合衆国大統領)のエレンに告白する。

その時も、エレンは息子の恋人が男性であることより、イギリスの王子であることに驚くのだ。

少なくともアレックスの周囲では、アレックスの性的指向が何であろうと禁忌としては扱われない。

それどころかエレンは、アレックスに男性同士のセーフセックスの仕方まで説明しようとして(原作ではエレンがパワーポイントを使用して延々と説明して)、却ってアレックスが居心地の悪い思いをするほどだ。

この清々しさは衝撃だった。

私がここまで、悲恋や苦悩や禁忌などと並べたてるのは、今まで観てきた同性同士の恋愛や同性愛者の登場人物を描いた欧米の作品の中で、幸せなトーンだったりハッピーエンドだったりしたものが極端に少ないからだ。
愛し合っていたのに時代が許さず別れたり、別れても慕い合っていたのに片方が死んだり、恋心を打ち明けられないまま死んだり、恋心を打ち明けたら拒まれたり、同性の恋人が死んだところから話がスタートしたり、挙げ句の果てに逮捕されたり。
どれがどの映画だとは言えないが、前述の展開は全部見たし、全部つらかった。
これらの悲劇は、同性愛者であることを周りが許さないか、周りと同じでない(=異性愛者ではない)自分を許せないかの2択、あるいはその両方が合わさって起きる。

そうした悲劇の断片は、王室という特殊な環境で、自分がゲイであることを自覚しながらそれを抑圧せざるを得ずに育ったヘンリーに時折垣間見られる。

劇中の後半、アレックスとヘンリーの関係が悪意によって公に暴露されてしまう(この展開は原作においても映画においてもとてもつらいのだが、個人的に原作と映画どちらについても抱く大きな不満が、アウティングした側がその後何かしらのペナルティを受けたかの描写がないところだ。アウティングした側のやつは公的にどつき回されて欲しかった)。

結果的にアレックスが大統領府でヘンリーとの関係について会見を行った時の声明文には、アウティングに対する静かな怒りが表れている。

(前略)

What was taken from us this week was our right to determine for ourselves how and when we should share our relationship and queer identities with the world.
今週、私たちが奪われたのは、二人の関係やクィアである自分たちのアイデンティティについて、世間にいつ、どのように公表するかを自分たちで決める権利です。

The truth is, every queer person has the right to come out on their own terms and on their own timelines. They also have the right to choose not to come out at all.
実を言えば、すべてのクィアには自らの意志で、自分なりのタイミングで公表する権利があります。全く公表しないことを選ぶ権利もあります。

(後略)

※英語字幕はPrime Video『赤と白とロイヤルブルー』より、日本語は拙訳。全文翻訳はこちら→https://privatter.net/p/10456333

この暴露によりヘンリーは、アレックスと共に祖父であるイギリス国王ジェームズ3世(原作では祖母のメアリー女王)と対峙することになる。
この時、劇中では初めて、ジェームズ3世その人*4により同性愛者に対する偏見と拒否が明確に示される。
そしてその時、ヘンリーは恐らく生まれて初めて国王に立ち向かい、それをイギリス国民が後押しするのである。


ヘンリーがジェームズ3世と対峙するのは09:33あたりから(クリックすると当該シーンから再生されます)

上手く行き過ぎだろうか、それともご都合主義だと言われるだろうか?
それでも、愛し合う二人が共に過ごすこと、そして他人がそれを妨げたり口出しをしたりしない世の中が来て欲しい、と望むのは我儘ではないと思う。

劇中終盤ではアメリカ合衆国大統領選が描かれ、対立候補と大接戦の中、アレックスは自分のせいで母親を落選させてしまうのではと不安に駆られる。ヘンリーはそんなアレックスのそばにいて声をかけ、アレックスから笑顔を引き出す。
それまで、アレックスが引っ張っていたように見えた二人の関係が、実はケアし合っていたのだとわかるのがとても良い。

そして大統領選はエレンが再選するのだ。しかも自分の故郷であり、長年共和党を支持してきたテキサス州を獲得して*5
この展開は、2016年に共和党候補であったドナルド・トランプが大統領になり、アメリカ国内の分断を深めた現実を思うと、作者の切実な願いが伝わってくるような気すらする。

アレックスとヘンリーは、互いへの気持ちを抑えることはしないと決めた時、全てを失う覚悟をするが、結果的に二人は何も失うことはなく、そのラストシーンは幸せに満ちている。

前述のアレックスの声明の一部を思い出す。

(前略)

I fell love in with a person who happens to be a man, and that man happens to a prince.
私が恋に落ちた相手はたまたま男性で、彼はたまたま王子でした。

(後略)

※英語字幕はPrime Video『赤と白とロイヤルブルー』より、日本語は拙訳。全文翻訳はこちら→https://privatter.net/p/10456333

LGBTQ+であることは禁忌ではない、あなたのその思いは道ならぬ恋ではない。
それが当然の権利だと言う、新しい時代への力強いメッセージに思えて仕方がない。

 

*1:視聴年齢制限は16+、つまりR15とされているので注意。

*2:ジャンルとしてはYA(ヤングアダルト)向け小説に当たるのか、映画ほどではないにしても原作にも性描写はあるのでやっぱり注意。

*3:ロミオとジュリエット』の元ネタだとどこかで読んだがwikiには記述がなかった。

*4:ジェームズ3世を演じたのは、オープンリーゲイのイギリス人俳優、スティーブン・フライである。この捻ったキャスティングがすごい。

*5:この辺りの展開は映画にもあるが、原作だとそのことがいかに困難なことかが語られている。

『暗殺者たちに口紅を』女性であることに瑕疵はひとつもない【ネタバレなし感想】

ここ最近、女性が主役の翻訳小説をよく読むようになった。
それもメインキャラクターひとりが女性なのではなく、脇を固めるのも女性という作品。

そして、今まで観たり読んだりしてきたあらゆる作品がいかに男性中心だったか、女性がメインでは成り立たないのではないかと思わされていたことに気が付いた。

最近読んだ女性メインの作品の中でも最も気に入ったのが、『暗殺者たちに口紅を』だ。


『暗殺者たちに口紅を』のあらすじは、こう始まる。

「60歳の女性暗殺者4人」

これだけで、私はこの本を読むと決めていた。壮年の女性たちが暗殺者、と読んで思い出したのは映画『ガンパウダー・ミルクシェイク』だった。しかし、『暗殺者たちに口紅を』の主役は若い女性ではない。
これから読まれる方の楽しみを奪うのは本意ではないので、これ以上内容については詳しく書かないが、あらすじはこう続く。

「古巣の暗殺組織に命を狙われた4人は、生き残り、平穏な生活を取り戻せるか?」

ワクワクしないわけがなかったし、私はとても楽しく読んだ。清々しい読後感だった。

そして解説を読み始め、ある一文にハッとした。 

主人公は暗殺者──そう聞いて、相変わらず大人気の『暗殺者グレイマン』(マーク・グリーニー著)などを想起された方がいらっしゃるかもしれないが、少しばかり違う。

グレイマン』というと、Netflixでも映画化され*1、現在も刊行されているハードボイルドものの小説シリーズだ。少なくとも私が読んだ第1巻は、刊行された2010年代初め頃の時代観に則したものだった。
当然のようにタフな男性暗殺者が主役で、主役が助けを求める相手も男性で、女性の存在は矮小化され、登場したとしてもあくまでサポート役として、それも恐怖に震えながら退場するという扱い。
確かに、主役が暗殺者(たち)であるという共通点以外、似たところはない。
むしろ『暗殺者たちに口紅を』を語る時に、『グレイマン』が引用されたことに驚いた。

しかし実際、『暗殺者たちに口紅を』のようなストーリーの男性版は数え切れないほどある。
盛りを過ぎた暗殺者たちが繰り広げるストーリーは、映画『RED』を彷彿とさせるし、『エクスペンダブルズ』も彷彿とさせる。
『グレイマン』のような、工作員を引退したり組織を追われたりした元暗殺者の主役(男)が何かの拍子に昔取った杵柄で大活躍する作品というと、『ジョン・ウィック』、『イコライザー』、『96時間』など、もう枚挙に暇がない。
このジャンルはずっとそこにあったのだ、メインキャラクターを全員壮年の女性にしたバージョンがなかっただけで。
そして、『暗殺者たちに口紅を』に心が躍った私は、ずっとこういう物語が欲しかったのだと気付いた。

ちなみに、『グレイマン』と対比できそうなのが、同じくNetflixで映画化された『ハート・オブ・ストーン』だ。
主演はガル・ガドットで、「女性ならではのしなやかさ」みたいな形容にはハマらない、「女であることを武器に」することも1秒もないタフな工作員を演じている。
主要キャラクターにも女性が多く、むしろ男性が脇に回っているのだが、それがまったく不自然さを感じさせない。
時代は確実に変わっているのだと思わせてくれる。

『暗殺者たちに口紅を』の作者ディアナ・レイバーンは、謝辞の最後にこう書いている。

性自認が女性で、憤るすべての人に。わたしもおなじです。これはあなたの本です。

男だらけの絵面に少し変化をもたらすためだけにいるのではなく、誰かをサポートするだけの役に回るのでもなく、虐げられ見くびられるためだけの存在でもない。
声を上げ、手を上げて、女性は主役たりうるのだと、ずっと主役であるべきだったし、これからもそうなのだと声高に叫ぶ。
そんな物語がもっと綴られていくべきだ。

すべての女性たちにとって、灯台のような作品がいくつも増えていくことを願わずにいられない。

 

*1:映画化されたNetflix版はいくらか女性の比率が上がっていたが、そもそも原作とNetflix版のストーリーが違いすぎて驚く。

手塩にかけて育てました〜ボルダリングの不思議な用語の話

子供の頃、スポーツが好きじゃなかった。
小中高の時分にスポーツ(体育)と言うと、もれなく強制で、団体行動だったからだと思う。みんなで準備運動、ランニング、声出し。
みんな入っているからという理由で中学の頃に入部したソフトボール部では、ソフトボール(野球)の基本的なルールを覚えただけで終わった。一時はスコアブックも付けることができたが、もう忘れてしまった。

で、いま私は、日常的にボルダリングジムに通っている。誰に強制されるでもなく、完全に趣味で行っているのだが、そのルールと用語は実地で覚えた。ルール自体は複雑でも何でもない。
しかし用語は、歴史が浅いスポーツ故か、独特で面白い。注釈にはわかる限りの英語を書いてみた。
ちなみに由来も何もわからないし、完全な私見。ただただ面白いな〜というだけの記事。

まず、ボルダリングで登るコースのことを、「課題*1」と呼ぶ。

この場合は赤色のホールドの並びが「課題」だ


課題をクリアすることは「落とす*2」と言う。『課題を落とした』とだけ聞くと大学で赤点でも採ったのかと思うが、ボルダリングジムで聞いたならそれは「クリアした」という意味だ。
さらに、課題を初見で落とすことを「一撃*3」と言う。『一撃で落とす』。狩りか、それとも城でも攻めているのか。何でそんな物騒なんだ。

これは古代ギリシャ時代のスパルタのファランクス

課題の簡単さや難しさは、「甘い」「(から)」と表現する*4。「甘い」は「やさしい(優しい)」とも言う。人が人にやたら優しくする「甘い」と、態度が冷たいという意味の「(から)い」なのだろうか。
また、ホールドが持ちにくかったり、足を置きづらい形状であることは「悪い」と言う。『パッと見は持ちやすそう(足を置きやすそう)に見えたのにそうではなかった』という落胆をひと言で言うと「悪い」なのだ。足場が悪い、などの表現から来ているのかもしれない。


少し話題は逸れるが、上述の中学のソフトボール部時代、声出しが嫌いだった。「ガンバ!」みたいなやつだ。
しかしボルダリングジムでは、この「ガンバ!」がとてもよく聞かれる。1番よく耳にするかけ声と言っていいと思う。
登っている人に対してかける言葉なのだが、別に言わなくてもいい、というのが中学の頃との違いだ。声をかけたければ相手を知っていても知らなくても「ガンバ!」と言う。実際、そのひと声でゴールにたどり着けたりするから不思議だ。
このことをボルダリングを知らない友人に話したところ、「部活みたい。懐かしすぎる」と言われた。確かに私も、中学以来言っていない気がする。
ちなみに英語では、
Come on!” “You've got this!”
と言う。


どちらもトップガンマーヴェリックでマーヴェリック(トム・クルーズ)が言ってた気がする


日本に暮らしていたらおよそ耳にしないようなフレーズだが、割とよく飛び交う。なぜ知っているかというと、ボルダリングジムには英語話者が意外と多いのだ。
中には日本語がペラペラな人も多くいて、ある日英語圏ネイティブと思われるお兄さんに「今回の課題めっちゃ(から)くないですか?」と話しかけられた。もう完璧な日本語&ボルダリング用語マスター。ちょっと(から)いですよね、と答えた。


閑話休題

ボルダリングジムでは、定期的に「壁(ホールド)貼り替え」が行われる。同じ課題だけでは、上手い人はすぐ全部落としてしまって来てくれなくなるし、初心者でも通い出すとだんだん飽きてくる。
模様替えと同じで、課題をガラッと変えることで客を呼び戻す。
その時に大抵のボルダリングジムはホールドをすべて洗浄し、ピカピカの状態で新しい課題を作り貼り替える。洗浄済みというのが大事だ。
なぜなら、長いあいだ人が触り、上に登ったホールドは、チョークとボルダリングシューズのソールに使われるゴムが表面にこびりつき、ツルッツルになっているから。
ツルッツルになったホールドは、摩擦が減り、持ちづらくなり、落ちやすくなる。

で、ホールドがツルッツルになって登りにくくなることを、「育ってる」と言う。
用例としては『このホールドめちゃ育ってる!』など。自分もそのホールドがツルッツルになる一端を担っているはずなのだが、さも勝手にそうなったかのように言う。
みんなで力を合わせて「育てた」はずなのに…。

とはいえ、ツルッツルのホールドは私も嫌いだ。特に足場がツルッツルだと足が抜けて怪我しやすい。
だから洗浄済みのホールドを見ると嬉しくなる。が、その時になって思い出すのだ、チョークもゴムも纏っていないホールドの表面が、粗い紙やすりみたいだったということを。

綺麗なホールドに手の皮をいくらか削られ、手塩にかけて育てるってこういうことだったっけかな…と思ったり思わなかったりしながら日々登っている。



*1:「ルート」とも。英語ではroute, problem, projectなどとも呼ばれる。

*2:英語ではsendなのだが、なぜクリアすることを「送る」と表現するのかもよくわからない。

*3:英語ではflash。何となくニュアンスはわかる。

*4:英語では普通にeasy, hardと表現するようだが、もしかすると別の表現もあるかもしれない。

アステカ、その扱いの耐えられない軽さ

この夏、東京国立博物館で特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」が開催された。東京国立博物館においては実に70年振りだったそうだ。

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そして私の記憶にある限り、先コロンブス期関連の展覧会で「アステカ」というワードを聞いたのはほぼ初めてだったように思う。テンションが上がり過ぎて、4回行った。展覧会に2回行くことすら稀なのに。

コロンブス期という用語に馴染みがないかもしれないが、意味は読んで字の如く「コロンブスアメリカ大陸を“発見”する前の時代」のことだ。
マヤ文明インカ帝国のことは耳にしたことがあるかもしれない。いずれも先コロンブス期に興った文明で、一時期『世界ふしぎ発見』等で熱心に取り上げられていたから日本でも知名度は高い方だろう。日本以外の場所でも、マヤ文明はジャングルの中に消えた謎の高度な文明として*1、そしてインカ帝国は眩い黄金の装飾品を誇る黄金郷として、人々のロマンをかき立てているのではないだろうか。

実際、マヤ文明インカ帝国を合わせた展覧会には以前行ったことがある。とはいえ、マヤ文明は現在のメキシコ、グァテマラ、ホンジュラスエルサルバドルなどのいわゆる中米のマヤ地域に興ったのに対し、インカ帝国は南米のアンデスに興った。当時としては地理的に近かったとは言えず、宗教観や死生観が似通っていたかというと首を傾げる。それでも、知名度を考えると抱き合わせた方が集客が見込めたのかもしれない。

一方アステカ文明はというと、マヤ文明インカ帝国と比べると知名度は格段に落ちると思う。

アステカ王国はメキシコ中央高原に興った国で、地理的な観点からも文化的な側面からも、マヤ文明と宗教観、死生観についてはある程度共有しているといえる。マヤ文明のようにピラミッドを建てて、儀式としての人身供犠も盛んだった。
実のところ、『古代』というほど古くもなく、その建国は14世紀だ。戦争と交易で国力を強化し、当時、アステカ王国の首都テノチチティトラン(現在のメキシコシティ)は世界有数の大都市となった。しかし16世紀にはスペイン征服者によって滅ぶ。その間、わずか200年足らず。

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古代メキシコ展の年表。「メキシコ中央高原」の欄の1番左のほんのわずかな期間がアステカ王国

で、ここ最近、立て続けにアステカ(Aztecs) というワードやそれに関連する要素が登場した作品を偶然観たり読んだりした。その歴史の短さ故なのか、あるいは知名度の低さも手伝ってか、揃いも揃って雑な扱いや間違った言及をされていた。そのたびに少し冷めていたのだが、それが重なり、やりきれなくなったのでここに書くことにした。

ちなみに、作品そのものを批判するつもりはない。全部面白かったと言える。本当に。ただアステカという言葉の扱い方が個人的にどうなのかなぁと思うだけで。

 

ひたすら雑な例:Ghosted (Apple TV+)

ネタバレにならないよう最大限ボカして言うと、ストーリー上重要なアイテムがその名も「アステカ(Aztecs)」なのだが、それがなぜそんな名前で、どういう役割を果たすのかよくわからないまま映画が終わる。
映画としては、10年前なら男女の配役が逆だっただろうなと思って観ていると面白い。だんだん強くなるクリス・エヴァンスが見どころ。

 

無理がないかなと思った例:トランスフォーマー/ビースト覚醒

考古学者が、ストーリー上重要なアイテムの場所を記した文字の出自として「古代エジプト文明より古いから、ヌビアかアステカかもしれない」と推測を言うシーンがある。
しかし前述の通りアステカは14〜16世紀に興ったので古代エジプトとは比べるべくもない。
紀元前何千年前のヌビアとアメリカ大陸の文明を並べたかったのなら、せめてオルメカ文明かマヤ文明(上の年表画像参照)なら苦しくなかったのではないか。その登場人物は、不当な扱いを受けている“有能な”考古学者という設定だったのだが、設定がブレ倒していた。wikipediaでも良いから見てほしいと切に思った。

 

一瞬飲み込みかけたが違った例:シャーロック・ホームズとシャドウェルの影

シャーロック・ホームズとシャドウェルの影』は、シャーロック・ホームズパスティーシュ小説だ。
作中、「ヘビの姿を取る神々が世界中には古くからいる」という文脈でアステカの神の名前が登場する。

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アステカ神話の神、トラロク(雨と雷の神)」とある。
中国や日本では、雨や雷をもたらすのは龍とされてきた。だからなのか、私の中の日本人の部分が一瞬納得しかけてしまった。
しかしこれは違うのだ。アステカ神話では、蛇の姿を取る神はトラロク(トラロック)ではない。

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メキシコシティテンプロマヨール遺跡にある蛇の石彫

名前そのものが「羽毛の生えた蛇」を意味する、ケツァルコアトル(文化、農耕の神)だ。だから、間違えようもない。

マヤ文明ではやはり「羽毛の生えた蛇」を意味するククルカンと呼ばれた。テオティワカンでは文字がまだ解読途中のため、何と呼ばれていたかわからないが、しかし羽毛の生えた蛇の石彫は存在する。

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チチェン・イツァ遺跡のエル・カスティーリョのククルカン石彫

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古代メキシコ展にて撮影、テオティワカン出土の「羽毛の蛇神石彫」

ではトラロクはどういう姿なのかというと、これだ。

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古代メキシコ展にて撮影

メガネのような丸い輪っかを顔に着けた姿、これがトラロクだ*2
翻訳小説だから、原書がトラロクと書いてあったなら訳者には変えようもないのだろう。しかし、仮にも現代に書かれた小説でこれをやられると、なぜか前2つの映像作品よりダメージが大きかった。紙に印刷されてしまっているからだろうか。それともよりによって、大好きなアステカの神々について間違われたからだろうか。

 

単なる勘違いだから目くじらを立てるなと言われればそれまでなのだろうが、アステカが好きなので、何気なく観たり読んだりした作品で雑に扱われているのを知ると悲しくなる。
これは、ハリウッド作品で間違った日本描写に違和感を抱くのとは訳が違う。私は日本人なので、家の造りや障子や襖のわずかな違いを感じ取れる。日本語の綴りの間違いも気が付く。
しかしアステカに関しては、昔に学問として少し学んだだけ。その私ですら「それ間違ってないか?」と思うのに、昔はなかったインターネットでいくらでも検索ができる現代に、作品を作る人たちがそうしなかったか、する価値もないと思ったのかと考えると、ひたすらやるせない。

 

 

*1:マヤ暦みんな好きだよね、マヤ暦に終わりはないので安心してください。あとマヤ暦は数種類あって複雑なので、占い等で使われる時はどのマヤ暦か確かめてください。

*2:念のためwikiを見たら、雷をモチーフにしたヘビのよつなものを携えた姿で描かれた出土品があったという表記があったが、「蛇の姿」と考えるとやはり違うと思う。