『竜とそばかすの姫』、あるいはメタバースの歪なお伽話の末路【ネタバレ感想】

家人が、地上波初放送が延期になった『竜とそばかすの姫』が観たいと言うので、配信レンタルサービスを利用して観た。

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映像、音楽共に美しい。それは確かだ。

映画冒頭にいきなり〈U〉の説明が入り、そこで熱狂的人気を得ている“ベル”の歌唱シーンで観客の心を掴もうとしている。

〈U〉というSNSVRが合わさったような広大なネット空間は、イヤホンだけで没入感を体感でき、また生体反応との連動も可能などの超技術により可能になっていると示す一方で、地方の今だ木造が残る高校で日々を過ごす主人公たちという、ギャップのあるふたつの舞台でジュブナイルストーリーを繰り広げようとした意図もわかる。
しかし、現実世界と〈U〉の切り替えに脈絡がない上、世界観に説明不足な箇所が多い。というか、この映画は世界観を他の作品から引っ張ってきて、そこに自分の世界をいいように当てはめた、みたいな作り方をしている。“他の作品”とは、言うまでもなく『美女と野獣』だ。
ここからストーリー進行とは前後するが、ご容赦いただきたい。

まず、主人公のAs(〈U〉内でのアバターのようなもの)の名前がベル(主人公のリアルの名前が「すず」なので最初はBell表記だが、どこかの時点でBelleに変わった)なのだが、Belleとは『美女と野獣』のヒロインの名前だ*1。また一方で〈U〉を荒らし回る謎の存在、竜の英語名はビースト(The Beast→野獣)である。何故野獣なのだろう。竜なのだからDragonでは?
竜を探すため外套を被って城へ忍び込むベルの姿は、『美女と野獣』で父を探すため野獣の城に乗り込むベル(Belle)に重なるし、竜の取り巻きらしきAIたちは、野獣の城で魔女の呪いにより主人と共に姿を変えられてしまった召使いたちに重なる。しかも竜が〈U〉に築いた城の中にはバラ園まである。
竜を執拗に追い詰めようとする自警団のジャスティンは、野獣を野獣と言うだけで殺そうとするガストンであろう。ディズニーアニメや、その後ディズニーによって実写化された映画で観たものと被る箇所がいくつもある。

私が記憶している『美女と野獣』(ディズニー実写版が記憶に新しい)は、驕り高ぶった美しい王子が、宴会の最中に現れた醜い老女に一輪のバラと引き換えに一晩泊めてくれと請われ、老女の醜さを理由に拒んだことで、醜い老女の正体=美しい魔女に城にいた者全員が呪われ、王子は醜い野獣の姿にされてしまう、というところから話が始まる。つまり野獣の姿は呪いだ。

では、竜にかけられた呪い、それは竜自身の非なのか。この辺りから、『美女と野獣』の世界観が崩れ、唐突に細田守ワールドが顔を出す。

映画の前半部分、〈U〉の中で繰り広げられる『美女と野獣』のストーリーは、地方の高校生の日常によって時折ぶつ切りにされる。主人公の過去のトラウマ、幼なじみとの微妙な関係、父との没交渉
主人公が〈U〉において自身の解放のためのAsを作成した次の瞬間、“ベル”は〈U〉でスターになっている。そして突然、地方のやたらデカい家に住み、超絶スペックのPCを揃えたやたらPCに詳しい友人が登場する*2

〈U〉の中での自己解放と竜との出会いを通して、主人公は現実世界でのトラウマをいくらか克服でき、子供も決して無力ではない、と言うことを見せたかった…のだと思う。しかしそのやり方には非常に問題がある。

ジュブナイルものにおいてはまず第一に、大人は子供の邪魔をしたり、注意を向けていなかったりと、とかく無能に描かれがちである。なおかつ子供だけで乗り越えなければならない困難というのがやたら大きくなりがちなのも事実だが、この映画で乗り越えるべき困難とされたものは、現実世界の、家庭というミクロな場で起きている犯罪である。
下敷きとなった『美女と野獣』と違い、ベルが竜を助けるストーリーになっているのは現代ぽいと言えるのかもしれないが、舞台はお伽話の中でなく現代(あるいは少し未来)の日本だ。
そこで、高校生の主人公が、父から虐待を受けている中学生を、たった1人で高知から東京まで向かい助けに行くという展開は、現実世界に則しながらあまりにもリアリティがない上に無謀だ。
虐待通報から保護まで48時間かかる→じゃあこのまま東京へ行こう、という気持ちはわからないでもないが、主人公を地元の駅まで車で送った大人たちは「あの子の決めたことだから」と主人公を1人で上京させる。いや決めさせんな。一緒に行け。

主人公は目的地に辿り着き、中学生とその弟と出会い、更には子供を虐待していた男とも遭遇する。主人公は、子供たちを守るため、男に殴られて顔に傷を負いながらも、ただ見つめるだけで男を退けるのだが、何なら3人とも殺されかねない事態である。
少なくとも高知にいた大人たちのうちの誰もが東京の該当地域の警察に連絡していないと見えるのが驚きだ。件のPCの使い手の友人が、主人公が高知から辿り着けるほどに正確に地域を特定していながら、である。

結局その後、虐待していた男はどうなったのか、子供たちはどうなったのかは語られず、頬を抉られるくらいの傷を負った主人公が頬に絆創膏を貼っただけで地元の駅に戻り、ほとんど口を聞かなかった父と会話を交わして映画は終わるのだが、娘が傷害の被害者になったならば父が東京へ向かうのが普通ではないのか。説明がされない故に、何のカタルシスもない。

余白と説明不足には大きな差がある。すべてを出来るだけ映像のみで見せ、ハイコンテキストな作品に仕上げたかったのかもしれないが、『美女と野獣』に乗っかった設定と、それにまるで関係のない高校生活、そして虐待案件と、唐突であったり描写不足であったりして、劇中の人物たちに感情移入できないまま終わった。いっそのことなら、地球存亡の危機を乗り越えるとかの方がよっぽどよかった、というのが正直な感想だ。

 

 

*1:実際、英語版ポスターではタイトルが『Belle』だ。

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*2:サマーウォーズにも出たが、田舎の家にやたらハイスペックな人あるいはマシンが揃う演出は、細田守の趣味が分かり易過ぎて却って赤面してしまう。