人はそう簡単には変われないという話

昨年末からアメリカとイランの関係が、何度目かはわからないが、にわかにきな臭くなってきた。

普段、精神の健康を保つため経済ニュース以外あまり見ないので、アメリカがイランの革命防衛隊司令官を暗殺、という報道を聞いて映画か30年前の話をしているのかと思った。

湾岸戦争多国籍軍vsイラク)が勃発したのも1月中だったからだ。何で覚えているのかと言うと、その日が身内の誕生日だったからだ。しかも30年前だ。人というのは歴史から何も学んでいない。

その頃の私は、いつか取り返しのつかない戦争が起きて世界が滅びるのではないかと本気で怖がる子供だった。それは杞憂だと親に窘められるほどにだ。その時初めて杞憂という言葉を知った。昔、中国の杞の国の人が、いつか空が落ちてくるのではないかと憂いていたというのがその語源だと後で知った。

しかし30年後の今、あの頃の私の心配を杞憂だと笑える気は微塵もしない。

 

でも今日は中東情勢について書くのではない。でっかい主語としての人が簡単には変われないのはもちろんだが、今日書くのは極小の主語としての人、つまり私自身の話だ。

話はまた数十年前に遡るが、私は不登校児だった。

なぜ不登校児だったのかというと、理由は特にない。というか、思い出せない。いじめられていたわけではないというのだけは確かで、今考えると集団行動がとことん肌に合わなかったのであろうと推察する。

不登校の始まりはお腹が痛い、頭が痛いとか言って休み出したというありふれたもので、休む期間が延びるにつれ母親が私を脳外科や内科に連れ出し(あるいは私が望んだのかもしれない)、ありとあらゆる検査を受け、身体機能に微塵も問題がないとわかると、次に行く場所は心療内科になった。

しかし如何せん子供であったので、特に薬を処方されるとかはなく、心療内科医に話をして箱庭を作らされるとか、カウンセラーに会うなどした。

カウンセリングは、子供であったので親同伴の回もあったのだが、学校関係の仕事をしていた父がカウンセラーにひどく懐疑的だったこともあり、長くは通わなかった。その頃の父を責めることはしない。何せ数十年前で、スクールカウンセラーもほぼいない時代だった。

そんなわけで、心療内科やカウンセリングに行って次の週に学校に行けるようになりました、なんて魔法はなかった(大人になってから心療内科とカウンセリングには大いに助けられたことを付け加えたい)。

不登校期間中、平日は8時半くらいに起き、母が用意してくれた朝食を食べ、当時まだ珍しかったパソコンのワープロ機能で小説を書いたりテレビを見たり読書したりして母が用意してくれた昼食を食べ、帰宅した家族と夕食を食べ寝る、というある意味規則正しい生活をしていた。特に起床時間だ。8時半って何だ、早過ぎる。

土日は母と2人で県内の色んなところに行った。平日は引きこもっている(というか電車もバスもほぼ通っていないど田舎だったので外出不可)娘を、土日くらいは連れ出そうという母の思いがあったのだろうか。今考えると、平日フルタイムで働き家事も一手に引き受けていた母が、土日に不登校児の娘を連れて出かけていたというのは尊敬以外の何の感情も湧かない。

こう書くと父が何もしていないように聞こえるかもしれないが、私の不登校について理解を示したのは母より父の方が先であった。前述したように父は学校関係の仕事をしていた。というか両親とも学校関係の仕事をしていた。ただ父の方が生徒と接することが多い立場の役職だった。その父が、「嫌なら行かなくていい」と言ったのだ。立場上、自分の子供が不登校などと職場で知れたら外聞が悪かろうことは想像に難くないのだが、父は「義務教育と言うが、それは子供の義務じゃない。通わせる親の方の義務だ」と言った。今思えばそれは親に不利なのでは、と思うが、当時の私は自分を肯定された気がした。その時の父の勇気にも、尊敬以外の感情がない。

私の規則正しい不登校は、半年ほどで終わりを告げた。きっかけはわからないが、恐らく家でやることが無くなったのだろう。集団行動は嫌いだったが勉強は好きだったことに気付いたのかもしれない。

不登校中に遠方から転校してきた友人(偶然家も近かった)が下校後よく遊びに来てくれ、「学校行こうよ」と言ってくれたのも大きかったと思う。彼女とは数年前突然連絡が取れなくなったが、元気だろうか。まだ連絡先を削除できずにいる。

話が逸れた。「学校は人と馴れ合う場所ではなく勉強しに行くところ」という開き直りにより、私の不登校は終焉を告げた。あと受験に響くのが嫌だった。ど田舎だったので、下手すると保育園から中3まで同じメンツという縛りから抜け出して同窓生のいない高校に行きたかった。そんなわけで進学した高校には同窓生1人しかいなかったが、進路により早々にクラス分けされる学校だったので、同窓生と顔を合わせることもほぼなかったと思う。

 

ここまで書いて実はまだ本題に入っていない。前段が長過ぎるし、なんなら本題の方が文字数少ない。自分語りが過ぎる。しかしそれには理由がある。今思いついたんだけど。

さて、月日は流れ、私は知人から相談を受けた。知人の子供が不登校ぎみになり、どうしたらいいかという相談である。

聞けば、その子もある時から具合が悪いと言って学校を休み出したという。

カウンセリング施設を紹介してくれと言われたので伝手を使って探した。しかしその成果は芳しくなく、不登校期間は長引いた。

詳細はプライバシーに鑑みてこれ以上は書かないが、私が驚いたのは、その子に対する私の感情の揺れだった。

その子は、私の目から見てとても恵まれていた。保護者は教育に精いっぱい投資し、不登校になれば生活環境を整えるため家電を惜しみなく買い与えた。私もその手伝いなどをしたのだが、内心思っていた。甘やかし過ぎでは?と。

驚いた。フルタイムで働く母に朝食昼食を用意させ、休みの日には遊びに出かけ、父の職場の立場では決して好ましくないことを半年も続け、大学はよりによって私立に日米合わせて7年も行かせてもらった私が、そう思ったのである。甘やかし過ぎでは?と。

甘やかされていたのは、私も同じである。甘いというより、親の、精いっぱいのことを子供にしてあげたいという愛情を思う存分受けていた。

私は両親が出来るだけのことをしてくれて今の私になった。

ならば、件のその子の保護者たちが彼らの精いっぱいを以て為すこともまた、その子への愛情なのだ。だからその子は、あの頃の私なのだ。

数十年後の私が、あの頃の私に「お前は甘やかされ過ぎている」などと言ったら、あの頃の私はどうなったであろうか。

私には姉がいるが、もし逆の立場だったら、姉が不登校になったらきっと、親に「贔屓だ」と不満を述べたであろう。確信を持って言える。

私は、不登校の経験をしておきながら当事者に対する公平な客観視が出来ていなかったことに、その子が現れるまで気付かなかったのである。もともとそういう人間だったのだ。自覚した時、恐ろしくなった。

人はそう簡単には変われない。しかし、極小の主語である人であるところの私は、少しずつ、誤差の範囲内と思えるくらい少しずつなら、変われるかもしれない。

そう思いたい。